徳川家斉の時代って意外と出来事が多いんです!あなたは全部言えますか?

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1、徳川家斉はこんな人

徳川家斉将在位期間(1787年~1837年) 大御所として実権を握る(1837年~1841年)

徳川家斉は1787年10代将軍徳川家治の死を受けて、1787年わずか15歳で徳川家11代将軍になります。そして50年という、徳川幕府最長の長期政権が誕生しました。

徳川家斉はとても女好きだったらしく、40人の側室から55人の子供を作ったといわれています。当然徳川家斉の時代の大奥は肥大化し、維持費も多額になりました。

徳川家斉はその対策として金の含有量の低い小判を発行しお金を多く流通させることで、600万両ともいわれる多額な利益を得ることに成功します。この政策が功を奏して江戸では浮世絵や歌舞伎など町人中心の文化である化政文化が生まれたのもこのころです。ここで注意したいのが、化政という年号はなく、徳川家斉の時代が文化文政という年号だったことから、その一文字を取って化政文化としたのです。しかし晩年になるとまたも天保の大飢饉(1834年)という凶作に端を発した各地での反乱に苦しみます。やがて将軍を12代徳川家慶に譲るのですが、その後5年間「大御所」として徳川家斉は実権をにぎり続けます。そして1841年69歳でこの世を去るのです。徳川家斉が政治を行った時代を別名「大御所時代」と呼ぶ場合もあります。

2、寛政の改革(1787年~1793年)

1787年徳川家斉は徳川家治時代の老中田沼意次を罷免し、当時11代将軍争いのライバルだった松平定信を任命します。その松平定信が享保の改革を理想としてかんせいの行った改革を寛政の改革といいます。

寛政の改革は現代でいうならば、「テレビ、ゲーム、参考書などを一切廃止して、自分のやるべきことをやりなさい」というような政策です。当時でいうなら「農民は農業武士は教科書と剣道だけやっていれば良し」ということです。それでは中身をみていきましょう。

棄捐令(きえんれい)(1789年)
借金がかさみ困っている旗本に対して、1784年以前の借金の帳消しと、1785年以降の借金の利率を下げるように札差(貸手)に命令した法律。これによってお金がなく困っている札差には幕府が援助したといいます。この法律の目的は武士の権威を回復させるためであるといわれています
 
寛政異学の禁(1790年)
幕府が農業や上下関係に厳しい朱子学以外の儒学を禁止した法律です。朱子学では身分の高い人には絶対服従などの教えがあったため天明の大飢饉で低下した指導力を回復させる目的があったと考えられています。ここで禁止したのは古学や陽明学であり、田沼が保護した蘭学、国学などは処罰の対象外でした。また在野の学者の政治批判を禁止し、海防学者の林子平などが処罰されました
 
旧里帰農令(1790年)
当時幕府の貴重な収入源であった年貢米の安定供給をはかるため、江戸に出稼ぎにきていた大量の農民を援助して自分の国の農村に帰るよう勧めました
 
人足寄場の設置(1790年)
江戸に多くいた無宿人=いわゆるホームレスたちの犯罪を防ぎ、江戸の町の治安の安定をはかるため、石川島に人足寄場を設置し、無宿人に仕事を与え職業訓練しました
 
囲米の制(1789年)
この制度は大飢饉に備えるために諸般の大名に社倉(しゃそう)や義倉(ぎそう)を作らせて、米や雑穀を備蓄させようというものでした。
また江戸の町では町費の7割をを積み立てさせる七分金積立法(しちぶきんつみたてほう)を出して貧しい人を救ったり、ききんの時の食料確保にあてさせました。
 
尊号一件(1789年)
朝廷で当時の天皇である、光格天皇が即位したときに父より位が上になってしまったことを憂い父に天皇の上の位=太上天皇、という称号を贈ろうとして幕府に拒否された事件。
このとき幕府側も徳川家斉が父一橋治済に将軍の上の大御所という称号を贈ろうとしていましたが、朝廷の一件もあり、松平定信は拒否、結果として徳川家斉の不満を買い失脚の大きな原因となってしまいます
 
⑦まとめ
このように寛政の改革は武士には優遇されたものであったが町人や百姓には厳しい政策となり、次第に商人が結束して幕府に抵抗するようになっていきました。また田沼時代に安定した財政も再び悪化の一途をたどり、次第に将軍徳川家斉の不満を買うようになります。結局松平定信は人心の掌握に失敗し、六年で失脚してしまいます。
 

3大御所時代=徳川家斉の治世1793~1837年

徳川家斉が大御所となって政治をするのは、1837年~1841年なのですが、寛政の改革のあとの徳川家斉が将軍として政治を行った期間を大御所時代というように呼んでいます。とはいえ松平定信の失脚後も松平信明ら、寛政の改革のメンバーが、寛政の改革を引き継ぎ政治を行いましたので徳川家斉はあまり口を出さず子作りに励んでいたようです、

1817松平信明が死去すると、徳川家斉は老中に水野忠成を任命し、いよいよ実権を握ります。徳川家斉はまず質を落とした貨幣を大量に発行します。これによって物価が上昇し、商業活動が活発になり、好景気になります。これによって寛政の改革で、火が消えたようになっていた江戸の町が一気に活気づきます。デメリットとして農村にも貨幣経済が浸透し豪農と呼ばれる金持ち農家が出現する一方、中には没落して農地を放棄し、無宿人になる者も現れ治安が悪化していきます。これは深刻な問題になっていきます。これに対し家斉は次のような制度を出します

1805年関東取締出役=かんとうとりしまりばんやく

関東八州をくまなく巡察し、江戸周辺の警備を強化

1827年寄場組合=よせばくみあい

幕府の直轄地や私領など問わず組み合わせて寄合を作り農村の秩序を守る。いわゆる町内会ですね

まとめ

大御所時代は文化年間(1793~1817)は寛政の改革を継承していったが、それ以降は寛政の改革と正反対のことをやり、商業は活気付き庶民の生活は豊かになった一方で農村では没落して無宿になる農民が現れ、幕府の収入は低下していき、結果的には幕府衰退の原因となっていきます

3天保の飢饉と大塩の乱(1832年~1837年)

1833年それは突如起こります。天保の大飢饉です。米の収穫量が例年の半分以下に落ち込んでしまいます。各地では百姓一揆や打ちこわしが起こり日本中が大混乱になっていきます。なお

1837年大塩平八郎の乱

大塩平八郎は大阪町奉行の元与力で、陽明学の知識が豊富でした。自分でも著書を出しており、この時は貧民救済のため自分の著書まで手放していました。

乱の主訴は大阪町奉行が大坂の庶民の困窮を省みず、豪商から米を買い江戸に送ろうとしていました。当然豪商は大量に米を買い占めます。その豪商に対し、大塩が乱を起こしたのです。

この乱は一日で鎮圧されますが、幕府の元役人が大坂という重要な地で起こしたという事実は幕府に対して不満を持つ民衆を勢い付かせ、江戸幕府をますます弱体化させる結果となりました。そのほか大塩平八郎の乱と呼応するように、新潟では国学者生田万(いくたよろず)伽藍を起こします=生田万の乱、1836年には加茂一揆が三河でまた郡内一揆が甲斐で起こります。この乱は初めて天領=(幕府の直轄地)で起きたということで幕府の支配体制が大きく揺らいでいきます。なお世間ではこれを世直し一揆と呼んでいたそうです。そんな中徳川家斉は将軍職を子の徳川家慶に譲ります

問題

寛政の改革の政策として謝っているものを選べ

1小石川養生所を設置  2七分金積立法を制定

3海国兵談を発禁処分  4旧里帰農令を発布

答え

『1』

解説

小石川養生所は享保の改革で徳川吉宗が1722年に作った日本初の公立病院である。似たような用語で寛政の改革での人足寄場があるが、これは無宿人に対して幕府が石川島に作った職業訓練所である。混同しないように注意したい。なお2,3,4は寛政の改革で行われた政策であるので正しい。

 

 

 
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