大学受験専門の塾・予備校をお探しならtyotto塾
2018/11/09公開

天智天皇ってどんな人?明日からあなたも天智天皇について語れるようになる!

645年に起こった大化の改新はとても有名で、古代日本史の中でも大きなトピックとなっていますが、

その首謀者であると言われる天智天皇(当時は中大兄皇子)が天皇となったのは663年で、

大化の改新から18年が経過しています。

特に661年に斉明天皇が崩御してから7年以上もの間、皇太子でありながら即位せずに政治を行っていました。

(これを称制といいます)

なぜ天智天皇はすぐに天皇とならなかったのでしょうか。

これには諸説あるのですが、そこに天智天皇という人物の苦悩の日々を垣間見ることができます。

 

大化の改新ダイジェスト

645年、当時の権力の中枢に座っていたのは蘇我氏でした。

中大兄皇子はその当主であった蘇我入鹿を中臣鎌子らと共謀して殺しました。

これを乙巳の変(いっしのへん、またはおっしのへん)といいます。

その後、皇太子となった中大兄皇子は、様々な政治改革を進めていきます(大化の改新)

日本書紀に記載されている改新の詔の、大きな柱は4つ。

1.公地公民制の制定

2.地方行政組織の設置

3.班田収授法の制定

4.新しい税制の確立(租・庸・調)

ただし、この全てが大化の改新の時期に定められたということに異論を唱える説も多く存在しますが、

日本書記にはこの4つの項目が記載されていることは理解しておいた方がいいでしょう。

この4つの柱の成立時期はともかくとして、中大兄皇子がこのような改革を行ったことにより、

日本は律令国家への道を進んでいくことになります。

 

不穏な朝鮮半島

ところで、当時の朝鮮半島には高句麗、新羅、百済の三国がありました。

この中で最も国力が衰えていた国は新羅でした。

しかし、当時の新羅王である武烈王は当時の東アジアにおける超大国である唐と手を結ぶことで

朝鮮半島における優位性を確保します。

中国の伝統的外交政策である遠交近攻(遠くと手を結び、近くを攻める)により、

唐と手を結んだ新羅は、660年、百済を滅ぼすことに成功します。

ところが、日本と友好的な関係を結んでいたのは百済です。

百済の遺臣たちは日本に滞在していた百済王子・豊璋(ほうしょう)の送還と援軍の派遣を要請してきました。

当時の天皇であった斉明天皇と中大兄皇子はその呼びかけに答えようとします。

 

倭の国のターニング・ポイント〜白村江の戦い

日本が百済を助けるために出兵を決めたのは、朝鮮半島での優位性を確保するため、

また、百済や高句麗が滅んで新羅一国になったために、唐、もしくは唐と新羅の連合軍が

日本に攻めてくることを脅威に感じていたためだと考えられています。

662年、朝廷は大軍を渡海させますが、翌663年、白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍の前に大敗します。

この敗戦により日本と連合を組んでいた百済は完全に滅亡し、日本の朝鮮半島における権益は完全に失われることになりました。

そして668年には高句麗が滅ぼされ、東アジア地域に唐と敵対する国は日本のみという状況に陥ってしまいました。

天智天皇は危機感を高め、国防、外交、政治体制などが大きく変わる契機となりました。

 

天智天皇の政治改革

 

664年、中大兄皇子は甲子の宣(かっしのせん)を出して、豪族の身分制度を改めます。

また、唐からの侵略を防ぐための国土防衛索として、

対馬・壱岐・九州北部などに防人(さきもり)をおき、太宰府政庁を守るために水濠や土塁で水城を築きました。

更には太宰府から大和にかけて山城をいくつも建設し、667年には都を飛鳥から近江の大津宮へ遷します。

661年に母である皇極天皇が亡くなって以来、ずっと称制して政治を行っていた中大兄皇子ですが、668年

ようやく即位して更なる政治改革を推し進めていきます。

天智天皇とは諡号(亡くなった後に贈られる名前)ですが、ようやく天皇として国を治める立場になるのでした。

天智天皇は668年に近江令を編纂したと言われていますが、この近江令については、原本が存在せず、

裏付ける資料も乏しいためその存在を疑われています。

どちらかと言えば体系的な法典というよりも単行法令の集成であったのではないかとも言われています。

さらに670年、天智天皇は日本初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成しました。

庚午年籍は豪族から公民、部曲、奴婢まで全ての階層にわたって登録した戸籍です。

徴兵や徴税を効率的に行うために実施されたと考えられています。

この背景にも唐の侵攻に対する天智天皇の危機感がありました。

しかし、このような政策は西日本の豪族を疲弊させ、朝廷に対する不満を育てることになります。

後に起こる壬申の乱において大海人皇子に有利な戦況を作り出す一因となります。

このように古代に日本における大きなエポックを創りだした天智天皇は、翌671年、病に倒れ大津宮で崩御します。

 

ではおさらいの質問です。

問1)白村江の戦いで日本が味方した国は?

1.百済

2.高句麗

3.新羅

答)百済。当時は百済の重臣や王子が日本を訪れて親交を深めていました。

問2)天智天皇(中大兄皇子)が遷都した都の名前は?

答)近江の大津宮。これにより、天智天皇の時代を近江朝廷と呼称することもあります。

問3)天智天皇が作った日本初の戸籍の名前は?

答)庚午年籍。律令制成立移行にも長く使用されました。 

 

おすすめの記事

行基と鑑真の違いって何?要点まとめてみた|日本史勉強法

2018/11/09

兵士として守る場所が違う?衛士と防人の違い|日本史勉強法

2018/11/09

【日本史受験者必見!】仏教公伝と仏教が日本に与えた影響!

2018/11/09