自分と社会の
「ちょっと」先を考える

2019/11/18公開

中2で売上150万円、「友達をつくる必要性を感じなかった」幼少期──tyotto代表取締役 新井光樹:わたしを結ぶ点と線

“you can’t connect the dots looking forward. you can only connect them looking backwards.(先を見通して点をつなぐことはできない。振り返ってつなぐことしかできない。だから将来何らかの形で点がつながると信じることだ。)”

アップル創業者のスティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業スピーチで言ったこの”Connecting the Dots”は非常に有名です。

つまり、あらかじめ未来を予想して線を引くことは難しくいが、その時々の選択が未来につながると信じてやり抜けば、後から振り返った時に、自然と明白な線ができあがっている、ということです。

連載「わたしを結ぶ点と線」では、さまざまなキャリアを送る人々の点の軌跡を追います。

第1弾では、tyottoの代表取締役、新井光樹(あらい・こうき)さんの半生を振り返ります。

愛知の田舎で育つ、小学校からの下校は、山道がイヤで校門前に21時まで座り込み

幼少期の新井光樹さん

幼少期の新井光樹さん

僕は、愛知県の豊川市で、3人兄弟の長男として生まれました。調理師の父親と、看護師の母親、下に2人の弟と祖母の6人家族です。

幼少期の記憶はあまりありません。両親は共働きだったので、旅行や遠出をしたこともほとんどないです。出かけるところといったら、近所のスーパーくらいで、母親について行ってその日の夜ご飯の材料を買うのを手伝っていました。

一つ、かすかに記憶に残っているのは、保育園で非常用のすべり台をすべって、よく先生に怒られていたことくらいですね。

その後、近所の豊川市立赤坂小学校に入学します。全校生徒150人ほどの小さな学校です。近所と言っても、田舎ですから片道、徒歩で45分ほどかかります。僕の家は山の上にあったので、毎朝山を下って、帰りはまた山を登って帰ってくるという、生活でした。

小学校から家までの道の実際の写真、かなり傾斜のきつい山道が続く

小学校から家までの道の実際の写真、かなり傾斜のきつい山道が続く

だから、とにかく家に帰るのがしんどくて……。いつも学校が終わると、校門の前でランドセルを背にしてしゃがんで座り込んでいました。だいたい15時か16時ごろに学校が終わってから、平気で夜の21時までそこにいたので、はじめのうちは仕事終わりの先生にも驚かれました。特に夏場は暑くて、座っているのも辛いくらいでしたが、不思議とそれ以上に家に帰りたくなかったんですよね。

「親は心配しないのか?」と思われるかもしれませんが、うちの両親は超放任主義で、昔から必要以上に心配されたり、勉強や進路についてうるさく言われたりしたことは全くありませんでした。だからといって親と仲が悪いわけではなくて、今でも普通に仲は良いです。僕にとっては、こういう両親の考え方はありがたかったです。

「友達をつくる必要性を感じていなかった」──体育祭はひとりだけ教室に

豊川市民プールに家族で出かけた時の写真

豊川市民プールに家族で出かけた時の写真

今でも変わりませんが、僕はとにかくじっとしていられない子どもでした。学校の授業中でも、すぐ「トイレ行ってきまーす」って言って教室の周りをうろうろして。先生の話がつまらなくて、50分ずっと席に座っていることができなかったんです。

当然、成績も良くありません。唯一テストで良い点が取れたのは、好きだった算数と、あとは体育くらいですね。運動は結構好きな方だったので。

ですから、今思えばクラスでも浮いた子だったかもしれません。実際、学校に友達はほとんどいませんでした。ただ当時の僕の感覚としては、クラスで浮いていた、と言うよりは自分自身が友達をつくる必要性を感じていなかったというのが大きいです。

そもそも大人数でいることが苦手で、何をやるにも皆で合わせないといけないのがイヤでした。そういう意味では、やはり浮いていたのかもしれないし、もしかしたら陰ではイジメられていたのかもしれませんが、それすら気にならないくらい周りはどうでもよかったんです。休み時間に友達と過ごすこともなかったですし、体育祭や文化祭などの学校行事も、1人参加せずに教室にいました。

そんな僕が唯一仲良くしていたのが、幼馴染の男の子2人です。

1人は同い年、もう1人は1つ歳下で、近所に住んでいたので自然とよく遊ぶようになりました。放課後はそれぞれの家でゲームをしたり、近くの公園に行ってキャッチボールをしたり。普段、学校では全く同級生と絡まない生活でしたが、その幼馴染が非常に社交的で友達がたくさんいる子だったので、彼らに引っ張られて、たまに校庭でサッカーをする輪に入っていた記憶があります。

実は彼らは、その後も中学、高校と同じ学校へ進学し、僕が大学進学で上京すると、同い年の幼馴染も関東の大学に、年下の幼馴染に至っては同じ大学の同じ学科に来るなど、何かと縁があります。今でも仲が良くて、毎日LINEをしているし、定期的にご飯にも行っています。

通塾1ヶ月×3回……塾に行っては辞めるの繰り返し

自宅での写真、当時9歳の新井光樹さん

自宅での写真、当時9歳の新井光樹さん

これまでのキャリアで、いくつかの学習塾を経営してきましたが、僕が初めて生徒として塾に通ったのは、小学5年生の時でした。

「塾」というものを知りたい、体験してみたいという思いがあり、自分から親にお願いして通わせてもらったんです。

ただ、結果的には、その後通った3つの塾をすべて1ヶ月で辞めました。やっぱり勉強が好きではないし、授業をじっと聞いていることができなかったんですよね。その上、塾の授業時間って学校より少し長いんですよ。そりゃ無理だなと。

1度辞めた後に「他の塾なら続けられるかもしれない」と思って入塾してみるものの、どれも続かず。

ありがたいことに親が放任だったこともあり、この時も怒られたり、無理に塾に通わせ続けられたり、といったことはありませんでした。これが僕の最初の塾との出会いでした。

中2の評定は9科17、“問題児”だった中学生時代

祖母の家の前にて、祖母の家は自宅から車で15分ほど

祖母の家の前にて、祖母の家は自宅から車で15分ほど

小学校を卒業すると、そのまま地元の豊川市立音羽中学校へ入学します。

中学に上がっても相変わらず成績は良くありません。中学1年生時の成績は平均を少し下回るほど。得意だった数学だけは5を取っていたものの、中学2年時の成績表は9科総合で17まで落ち込みます。

中学では、いわゆる問題児”のレッテルを貼られていました。

遅刻はするし、授業も抜け出す。宿題は出さないし、教室に鍵をかけて先生を閉じ込めたこともありました……。今思えば申し訳ないことをしたなと思うこともありますが、とにかく問題行動が多く、親も学校によく呼び出されていました。半ば先生たちも諦めていて、職員室に行くたびに「また?」と笑われていました。

親が学校に呼び出される時も「またですね」と言って先生と軽く雑談して帰ってくるような感じでした。

中2、セドリで150万円を売り上げる ──きっかけは趣味のネットサーフィン

新井光樹さん

そんな僕がこの頃、中学2年生、勉強そっちのけでやっていたのが、セドリビジネスでした。

「セドリ(競取り)」というのは、商品売買の仲介をして、手数料を取る転売ビジネスのことです。中2でビジネスを始めることになったきっかけは、趣味のネットサーフィンでした。いつも親のパソコンを借りて、通販サイトなどを見ていたんです。

そんな当時、僕たち中学生の間では、あるゲームソフトが人気でした。しかし、そのソフトは、一部の中古屋でしか取り扱っていない貴重なもので、値段も5000円ほど。中学生の僕には到底手が出ない代物でした。

ところがある日、いつものように、ネットサーフィンでゲームソフトを探していると、たまたま見つけた中国の通販サイトで、探していたゲームソフトが800円という破格の値段で安売りされているのを見つけたんです。送料を含めても2000円ほどでしたので、僕はすぐに購入しました。

すると数日後、今度は知り合いから、僕にもソフトを買ってほしいと頼まれたんです。定価の2000円で彼にゲームソフトを買ってあげると、その日をきっかけに他の知り合いからも頼まれるようになりました。

そこで僕は「定価の2000円ではなく4000円で売ると利益が出るのではないか?」と思ったんです。すぐに親に1万円を借りて、ゲームソフトを10本買い占めると、1本4000円で販売。完売で計3万円の利益を手にしました。

僕にとっては利益が出て嬉しいし、買ってあげた人にとっても、品薄だったものを、定価より1000円安く手に入れることができ、ありがとうと感謝をされました。この時に僕は良いことをしているんだと嬉しくなりました。

その後も2年ほど、洋服など、いろいろなものをセドリして利益を生んでいました。僕のお客さん”だった周りの中学生たちは、親の目もあって、ネットを使わせてもらえなかったり、通販サイトを使えなかったりしていたので、買い物の代行を頼まれることが多かったんです。しばらく、代行をして+1000円の値付けでセドリを続けていました。

面白いことに、こんな感じでいろいろなものを売り続けていくと、なんとなくみんなの好みがわかってくるようになるんです。なので、みんなが欲しがりそうなものを予想して、時には部屋いっぱいにダンボールが積み上がるくらい大量に仕入れていました。結果的には約1年で150万円ほどの売上を上げることができました。

恋愛に興味ナシ、でも彼女はいた

余談ですが、中学2年生のとき、初めての彼女ができます。近所に住んでいる1つ上の女の子でした。ある日突然、彼女が僕の家の前に来て「好きです」と。一度も話したことがない子だったのでただただ呆然です。とりあえず、なぜ好きになってくれたのかを聞くところから、軽くコミュニケーションを取り、その日は解散しました。

付き合うことには一切興味が無かったので、その時は「好きです」と言われただけで、付き合うかどうかの話はしませんでした。可愛い子ではありましたが、当時、いや今でも、付き合うとうことへの願望は全くないんですよね。

それからというもの、彼女は学校で声をかけてくれたり、「一緒に家に帰ろう」と誘ってくれるようになり、ある日いつものように学校から下校しているときに「付き合って」と言われました。付き合ったところで何が変わるわけではないと思いつつも、了承し、それから約1年、一緒に下校する関係が続きました。結局、彼女が1年早く高校生になってから、なかなか会う機会もなくなりお別れすることになりましたが、友達もいなかった僕にとっては非常に新鮮な体験ではありました。(第2回に続く)

著者

チョットーク編集部

チョットーク編集部

自分と社会の「ちょっと」先を考えるメディア、チョットーク編集部です。

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