自分と社会の
「ちょっと」先を考える

2019/11/28公開

「朝6時まで残す塾」と「岐阜の核融合科学研究所」が人生の分岐点に──tyotto代表取締役 新井光樹:わたしを結ぶ点と線

「友達をつくる必要性を感じなかった」幼少期を経て、中2でビジネスの世界へ。14歳にして年150万円以上を売り上げる──。

前回は、教育ベンチャーtyottoの代表を務める新井光樹(あらい・こうき)さんの幼少期を振り返りました。

さて、中学3年生になった新井さんはある「塾」へと通いはじめます。「人生のターニングポイントになった」と話すこの出会いから、見ていきます。

第1回はこちら>

[中2で売上150万円、「友達をつくる必要性を感じなかった」幼少期──tyotto代表取締役 新井光樹:わたしを結ぶ点と線]

参考書ダメ、ヒントもなし……「平気で朝6時まで残す」スパルタ個人塾との出会いが人生のターニングポイントに

tyotto代表取締役の新井光樹さん

さて、そうこうしているうちに僕も中学3年生に。実は、中学に入学した頃から、3年になったら勉強しようと思っていました。というのも、当時の愛知県の高校受験は変わっていて、入試に必要だったの内申点は3年生の内申点だけだったからです。

結果的に、3年時の評定は9科で36と大幅に向上。目標とそれをやる理由が明確なら、そこに向けた努力はできるタイプで、それは今でも変わりません。

そうして成績を大幅に上げている頃、僕は小学5年生ぶりに、ある数学専門の個人塾に通いはじめます。この「いが塾」が僕の人生のターニングポイントの一つになりました。

得意だった数学で、自分の力を試してみたくなったのが入塾のきっかけです。この頃は、将来も数学で食べていきたいと思っていたくらい数学にハマっていて、夢も、ぼんやりと数学者のようなものをイメージしていました。

いが塾では入塾テストがあり、高校入試の問題を解かなければなりません。もちろんまだ習っていない範囲があるため、30点ほどしか取れなかったんですが、塾長の“いがばあ”(五十嵐さん)が「あなたは見込みあるから勉強すればできるよ」と言ってくれて、入塾することになりました。

「いが塾」はそのスパルタぶりで有名でした。噂に聞いていましたが、実際に入ってみると、聞きしに勝るものでした。

いが塾では、その日の課題が終わるまで何時になっても帰宅することはできません。終わらなかったら平気で朝6時まで残すような塾でした。僕も学校が終わって16時から17時頃に塾に着きますが、課題が終わるのはいつも23時頃でした。20時に帰れた人は、スーパーヒーローでしたよ(笑)。

数学は「解けないから」好きだった

高校時代に使っていた数学の参考書

課題は主に、高校入試などの問題です。それを全て解けるまで終わりません。しかし、たとえ学校で習っていない問題でも、問題集や教科書を見ることは一切できませんでした。その上、いがばあも何も教えてはくれません。自分だけで、問題を見て必死に考えます。

でも、不思議なことに、追い込まれると、習っていない公式を使うような問題でもなぜか解けるんですよ。めちゃくちゃ頭を使うと、パッとひらめく瞬間があるんです。この経験のおかげで、与えられた選択肢しかない中で、いかに正解に近づけるかを必死に考えることができるようになったように感じます。それに、少々のことでは動じない強い精神力も身につきました。

自分の知らない問題、できないことはたくさんあるけど、それは自分が一生懸命頑張れば「できること」に変わるんだということを実感できました。

歴史などの科目が、知っているか知らないかで完結してしまう一方で、数学は問題が分からなかったとしても思考を巡らし、試行錯誤していると、結果的に答えに辿り着くことがあります。僕は、その一連のプロセスが好きでした。

解けたから好きなのではなく、「解けないから好き」だったのです。できないことが多くあることは、これからできるようになることが多くあるのと同じことです。今でも、僕はその状況に気持ちが高ぶります。

塾に通い続けられたのも、自分の知らない問題が無数にあり、これからできるようになるかもしれないと思えたことがモチベーションになったからです。

いが塾を卒業する最後の日。いがばあは卒塾生にケーキを用意してくれて、「1年間よく頑張りましたね。ここで1年間やり切ったあなたたちなら高校に行っても絶対うまくやっていけます。この塾を出たことを誇りに思ってください」とあたたかい言葉をくれました。あれだけ厳しかったいがばあが、この日だけは超優しくて、笑顔だったんです。さすがにうるっときましたね。

いが塾は中等部しかなかったので、高校生でも続けられるように、高等部も作ってほしいと塾の子と一緒に何度もお願いしました。それくらい、大好きな塾と先生でした。

毎朝起きたら「国語が好き」だと10回唱えた

いが塾と並行して、実は母親の友達に家庭教師として国語を教えてもらっていました。

先生からはよく、「今の成績や将来のやりたいことは考えずに、とりあえず自分は国語を好きだと思い込みなさい」と言われました。

そのために、毎朝起きたら「国語が好き」と10回唱える生活を続けていたんです。すると、理由はわかりませんが、だんだんと本当に国語が好きに思えてきて、以前よりも国語の勉強を楽しめるようになりましたし、今までは解けなかった問題もできるようになっていました。

この考え方は今も変わりません。どんなことでも楽しむことさえできれば、できるようになっていくと信じています。

全部数学の時間割も夢じゃない? 単位制の高校を志望

中3になってからぐんと成績を伸ばした僕は、ついに高校受験を迎えます。

受験した愛知県立岡崎東高校は、その当時、県内で話題になっていた単位制の高校でした。

大学のように自由な時間割が組めることを売りにしていて、数学が好きだった僕は「この高校なら時間割を全部数学にできるんじゃないか……」と思い、志望しました。

受験では、満点を取った数学以外は平均を下回っていたものの、中3の内申点が良かったこともあり、無事合格。晴れて高校生を迎えました。

みんなは世界史の授業、でも僕だけ理科室へ

しかし、結局は時間割を数学でいっぱいにすることはできませんでした。

学校には希望する進路に応じていくつかのコースがあり、そのコースによって大まかな時間割が決まっていたんです。なかでも学校が推していたのは国立大学進学を目指すコースです。僕の高校に限らず、地方の進学校ではこうした国公立重視の傾向が強いと思います。このコースを選択すると、結局は、国公立受験に必要な科目(多くの場合、文系なら5教科7科目)を満遍なく勉強しなければいけないので、ほとんど通常の学校と変わりません。

ただ、どうしても自由な時間割を諦められなかった僕は、先生たちの意向を振り切って、希望する時間割を押し通します。総合学科を新設した2年目だったこともあり、こんな生徒は学校でも初めてで、先生たちもどう対応すれば良いのか分からずに混乱していたようでした。

1年生の頃は必修科目が多かったので文系の授業も受けてはいましたが、選択科目では数学、科学探求、環境科学といった、興味のある理系科目ばかり。高3になるころには、必修科目も少なくなり、受ける授業のほとんどが理系科目でした。

普段は国立大学コースの理系クラスの中にいるので数学などの共通科目をみんなと一緒の教室で受けていましたが、例えば世界史の授業の時には、僕だけ物理の授業を受けるために、一人で理科室に向かっていました。

数学の成績は学年トップ。また好きだった物理もトップの成績でしたが、他の科目はほとんど赤点でしたね……。

物理の先生との会話から、岐阜の核融合科学研究所へ

高校生になり、僕の将来の夢は、数学者から物理学者に変わりました。僕が研究したかったのは「核融合科学」です。

きっかけは、大好きだった高校の物理の先生です。変わった授業をする人で、サッカー漫画『キャプテン翼』を題材に、「ゴールネットを破る力でゴールをするときに、どれくらいのエネルギーで蹴っているのか」みたいな題材で物理を教えてくれました。テストの点数を取るための公式を覚えるようなことは一切なく、物理の本質的な面白さに重きをおいた授業をしてくれたんです。気づくと僕は物理が大好きになっていて、授業後も先生によく物理の質問をしに行くようになりました。

高2の冬のある日、先生と原子力発電の話になりました。

当時、東日本大震災の影響で起きた原発事故により、世間は口を揃えて原子力発電が悪だと非難していました。でも、僕はどうもそれがおかしく思えたんです。

これまで、いや今でも僕らが生活で使う電気の大部分は原子力発電でまかなっているのに、この事故が起きた途端に原子力発電を非難するのはおかしいんじゃないか?。 非難するだけではダメだと、原子力発電に替わるエネルギーはないかと探していると、「核融合」という技術を見つけました。(核融合は、原子同士がぶつかって新しい原子ができる反応を利用した技術。核融合に使われる燃料は無尽蔵と言われ、放射性廃棄物も出さないことから次世代のエネルギーとして注目を集めている)

そんな話をしていると、先生は「岐阜にある研究所に行って実際に核融合をみたらどうだ?」と勧めてくれたんです。さらには、先生が掛け合ってくれたおかげもあり、愛知から岐阜への渡航費も学校が用意してくれることに。こうして僕は研究所へ行くことになりました。

そしてこの研究所が僕の大学選びの決め手であり、僕の大切な場所になります。

実現まで120年、結果の見れない研究をなぜ?

岐阜県土岐市にある核融合科学研究所は、安全で環境に優しい次世代エネルギー「核融合」を実現するために、国内や海外の大学や研究機関とともに研究協力を進めている施設です。

研究所では所員の方々と話す機会をもらい、たくさんのことを聞きました。「そもそもなんのために日本がこの研究をしているのか」「核融合は今後どうなっていくのか」──。さまざまな話をする中で印象に残ったのは、働く人々の熱い思いでした。

当時、核融合科学は実用化まで約120年かかると言われた技術でした。つまり、今目の前にいる誰も、核融合が実用化する未来をその目で見ることができないことになります。

非常にハードルが高く、ましてやその成果を自分の目で見ることさえできない。それなのに彼らがどんな思いでこの研究をしているのか、疑問をぶつけると、「私たちが今ここで研究をしなければ、120年後にその景色を見れる人はいません。私たちみたいなバトンが絶対に必要なんです」と。

この話を聞いて、自分も核融合科学を研究したいと思うようになりました。そして、自分の手で、120年と言われる実用化を30年にして、この研究員の人たちにもその景色を見せてあげたいと思うようになったんです。

高校3年の夏、アポなしで日本大学へ──

岐阜から帰ってきた僕は、早速、核融合科学を研究できる大学を探します。すると、日本でその研究ができる大学が日本大学と大阪大学の2つしかないことがわかりました。

なかでも、日本大学の研究分野は僕がやりたかったものにかなり近く、加えてキャンパス内にある専用の研究室で大学生も専門家も一緒に研究しているということに惹かれ、第一志望を日本大学の理工学部に決めました。

高3の夏休み、大学を見学したいと思った僕は1人で愛知から東京にある日大のキャンパスへ、夜行バスで向かいました。しかし、アポも取らずに行ったので、受付の人から、担当者が不在だと言われてしまいました。今考えれば、アポくらいとろうよと思うんですが、考えるより先に行動するタイプだったので。結局その日は見学できませんでしたが、大学の人も「せっかく愛知県から来てもらったので」と、好意で翌日、担当の人を呼んでくれることになり、その日はホテルに宿泊してまた大学に行きました。

9月、日本大学のAO入試を受けるために東京へ向かいました。

ちなみに、前回もお話しした通り、両親は放任主義だったので、僕がこの時ひとりで東京に行ったことや宿泊していたことを、全く知りません。母親にいたっては日本大学を受験したことすら知りませんでした。合格の報告をして初めて知った、という感じです。その時も特に喜ばれるわけでもなく「受かってたんだね」の一言で終わりました。

これは余談ですが、入試当日のグループが一緒だった子と付き合うことになりました。彼女は千葉に住んでいたので、月1くらいのペースで僕が夜行バスで東京に会いに行って。今思えば、恋愛に熱があったのかもしれません。中2から始めたセドリで、150万円ほど稼いでいたので、東京への交通費などはすべて自分で出していました。(第3回に続く)

著者

チョットーク編集部

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自分と社会の「ちょっと」先を考えるメディア、チョットーク編集部です。

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